外国語の影響
なぜ青信号を「みどり」といふ人があらはれるのか。きつとそれは、英語教育の流通と関係があるのかとあやしんで居る。信号の「青」は 英語では「green」と言ふ。「blue」ではない。
先日、私の知り合ひがドイツ人と英語で話をして居たとき、「日本では信号の色は、green のことを blueといふんだよ」といつた雑談をしてゐました。彼の頭の中では 、
「あを」== 「blue」
といふ結びつきが完全にできあがつているのだらう。
信号の色を話題にして英語で話すなら、「あを」は「green」と翻訳しなければならぬのだが。
簡単なことばほど、外国語に翻訳するのが難しい
これもあたりまへのことだが、ある言葉が外国語と一対一で対応づけるられることは一部の例外を除ひてまずない。例外とは、例へば、自然科学上のことばや十分に吟味された契約書のことばなどである。
色の呼び名もしかり。たとへば、葛飾北斎が好んだ「青」は、無論、それが独特の色であり、それに特別の名をつけさへすれば、言語に依らず同じもやうなものを指せる。丁度、科学者が光を波長で区別したり、コンピューターが三原色の数値の組合はせで色を特定するやうに。
一方、言語が異なる別々の人が日々の暮しで使ふ言葉は、往々にしてその意味合ひにずれが生ずる。「あを」と「blue」はその典型である。それぞれの言葉を話すひとの言葉が、それぞれの文化や社会、歴史に深く根差してゐれば居るほど、ずれが大きくなる。「神様」と「God」もさうでせう。
カタカナ語が拍車をかける
さらにやっかいなことには、「グリーン」や「ブルー」といふカタカナも流通しており、ことここに至り、もはや何がなにやらわけがわからぬ。あなたの「グリーン」は私の「青」か「緑」か、はたまた、私の「green」か「blue」か。
行きつく先は
嘘か真か、ちかごろの日本の信号機の「青」の色は、英語でいふところの「blue」になつて来てゐるとのこと。「青」と云ふ言葉に合はせるやうに。さらにその背景には、青色ダイオードの發明もあるのでせう。發明があつてLEDを使ふた「ブルー」信号が作れるやうにもなつた。
科学技術の發展は本当にめざましい。いづれ、生命工学や遺伝子工学がさらに進んだあかつきには、晴れて「青」りんごや、「青」ピーマンや、「青」なす、「青」葉ができることでせう。食べたくも見たくもないけれど。それまでの間は、
「青」== 「green」あるいは「グリーン」
と変換することも頭にいれておきませう。